poplar

Poplar

2024.4.13 「ウイングマン」アニソン名曲40年ぶりに一挙披露 歌手ポプラ「ファンの方に喜んでもらえるならよろず〜 ニュース)
2022.4.8 「ウイングマン」「Gメン75」「美女と野獣」歌ったポプラ「自由に生きてきた」〜岸田今日子との思い出も胸によろず〜 ニュース)

Live information

 2024年8月23日(金)
 “Songbook”を紐解きながら #3 〜 お話とうた 〜
 with 堺 敦生 piano

 live space Zimagine
 東京都港区南青山6-2-13 ファイン青山B1
 ticket \6,000-
 18:00 open 19:00 start
 予約開始 5月7日 先着30名

 ※ご予約で満席となりました。ここからはキャンセル待ちの受付となります事、ご了承ください。


2024年4月12日(金)
築地・汐留 BLUE MOOD(ブルームード)
ポプラ(vocal),堺 敦生(piano),阿部 梓穂(percussion)
guest:RYU(guitar)

後半では「ウィングマン」などアニメの曲をフューチャーします。お楽しみに。
open 18:00 start 19:00 music charge \8,000[前売り] \8,500[当日]

※ご予約は2月3日(土)からBLUE MOODの「オンライン予約」または「電話予約」にて受付をいたします。詳細はBLUE MOODのwebsiteよりご確認ください。
https://blue-mood.jp/schedule/reservation-flow
店舗休業日は電話が繋がらない場合もございます。何卒ご了承の程お願い申し上げます。





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Disc

 『Songs of Love / Poplar』
 Vocal:ポプラ
 Piano:森丘 ヒロキ,Bass:加藤 真一,Guitar:千代 正行

 Producer:Poplar
 Recording / Mastering Engineer:滝口 実
 Mixed at:Hota Studio
 Photographer:金井 恵蓮
 Supervisior / Design:安部 昌臣

Disc 1. 六本木STB139
Poplar Special Live 2010 "Sailing"
 01 Sailing
 02 You'd be so nice to come home to
 03 P.S. I love you
 04 Someone to watch over me
 05 Love is here to stay
 06 But beautiful
 07 Lover come back to me
 08 Cry me a river
 09 Stormy weather
 10 Over the rainbow
 11 Antonio's song
 12 Tears in heaven
 13 One hand one heart
 14 Somewhere
 15 Inori
Disc 2.南青山マンダラ
Poplar Live 2011 〜私が出会った歌たち〜
 01
 02 あいたくて
 03 遥かなる旅路
 04 異次元ストーリー
 05 愛ゆえに哀しく
 06 こいぬはなぜあったかい
 07 パンツのはきかた
 08 林で逢った人
 09 色紙
 10 つばめ
 11 積もった雪
 12 十三夜
 13 私と小鳥と鈴と
 14 仔猫
 15 わたしが一番きれいだったとき
 16 ヨドバシカメラ
 17 胸の振り子
 18 港が見える丘
 19 Peopleのテーマ
 20 祈り
 21 明日になれば

皆様の幸せを祈って

今年、歌い手になって41年になった。
私は、「歌い手」という言葉が好きだ。天から音が降って来て、私を通して音楽の神様が歌って下さったらどんなにいいだろうと、いつも「そうなりますように」と祈りながらやってきたような気がする。
たくさんの皆様、優しき友人たちに感謝します。

ライブ盤CD化にあたり、監修をしてくださった照明家の安部昌臣さんには多大なご助力をいただきました。本当にありがとうございます。アムテックの滝口実 さん、惜しみないお力をいただきありがとうございます。KIMの沼沢秀明さん、Guitarの千代正行さん、スケールトーンの北爪さん、温かなサポートありがとうございます。CD化を快諾してくださった私の大切な仲間たち、Bassの加藤真一さん、Pianoの森丘ヒロキさんありがとう!

今年は、東日本大震災、福島原発のことがありました。被災者の方々、避難されていらっしゃる方々が一日も早く穏やかな日々をとりもどし、お元気になられますように、毎日心から祈っています。

最後に、今は亡き両親と、私が小さい時から、音楽の道に生きるようサポートしてくれている姉に感謝します。
そして、宇宙の神様に感謝します。

2011.11
Love Poplar



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Profile

ソウルシンガーとしてコンサートやミュージカル「People'78」等に出演後、渡米。 帰国後は精力的にミュージカル作品に出演。 「Gメン75」、「
ウイングマン」、「スターザンS」等のTV主題歌、テレビ版ディズニー作品「チップとデール」、「わんぱくダック」の主題歌、映画版ディズニー作品「美女と野獣」の主題歌、「ヨドバシカメラ」、「SONY Walkman」、「アップルコンピュータ」等のCMソングも数多く歌う。 近年は日本語の美しさを表現すべく谷川俊太郎、金子みすゞ、茨木のり子などの詩歌にも積極的に取り組んでいる。

ポプラのパーフェクトボイスは、力強さと繊細さを兼ね備え、聴く者の心を魅了し続ける。

年代 主な舞台・テレビ活動/ レコード、CD、ビデオ 作・構成・演出など
1978 Musical show「People'78」
1979 渡米 Musical show「Dancing Heroes」西武パルコ劇場 構成・演出・振付:中川久美
Musical show「Dancing Heroes」西武パルコ劇場 構成・演出・振付:中川久美
1980 Rock musical「Hair」西武パルコ劇場
Musical「青春 ON Stage」 演出:藤田敏雄
Musical show「Dancing Puzzle」西武パルコ劇場 振付:中川久美
♪ TBSテレビ「Gメン75」 主題歌「遥かなる旅路」
1981 TBSテレビ「サウンド イン S」出演
「血は立ったまま眠っている」(ペギー役) 作:寺山修司
演出:鈴木完一郎
Musical show「People'81」
1982 NHKテレビ「テレビファソラシド」(レギュラー出演)
コンサート at ジャンジャン
♪ アニメ映画「198X年」 主題歌「愛ゆえに哀しく」
Rock Symphony 紅い牙「Blue SonnetT・U・V」
1983 渡米 コンサート at Eggman
♪ テレビアニメ「スターザンS」 主題歌「Show me your space 」
1984 渡米 コンサート at Eggman
♪ テレビアニメ「ウイングマン」 主題歌「異次元ストーリー」
1985 渡米 西友 子供Musical「キュルトンへの帽子」
コンサート at 六本木 PitInn
Off Broadway Musical「Talking my turn! 人生はこれからだ」
Jazz Live House「カーニバル」
♪ アニメイメージアルバム「Magician」「華星夜曲」「Palm」
♪ テレビコマーシャル「ヨドバシカメラ」
1987 「ファンキー・ジャズリバイバル」(ゲスト出演)バリオホール
コンサート「春のポプラ」 <ジャンジャン> 構成・演出:村田大
テレビ東京「誘われて二人旅」(岸田今日子さんと共演)
演劇集団「円」 芝居「日本語なんてどんどこどん」(客演)紀伊国屋ホール 作・構成:谷川俊太郎
演出:小森美巳
1988 ♪ テレビ東京「わんぱくダック夢冒険」ディズニー劇場 主題歌「わんぱくダック」
1989 Off Broadway Musical「Talking my turn! 2 人生はこれからだ」下北沢 本多劇場 作:創樹社
演出:寺崎裕則
振付:藤代暁子
Original Jazz Musical「Moonlight Beauty」(ヒロイン:マリッサ役)新橋ヤクルトホール 演出:野沢那智,木島恭
♪ テレビ東京「チップとデールの大作戦」ディズニー劇場 主題歌「チップとディール」
1990 Off Broadway Musical「Talking my turn! 3 人生はこれからだ」 制作:創樹社
♪ 東映VCINEMA「女バトルコップ」 主題歌「NO NO GIVE-UP」
1991 ジャズ、ポップスなどのスタンダードナンバーを中心にホテルなどのライヴ活動開始
1993 渡米 Off Broadway Musical「Talking my turn! 4 人生はこれからだ」 制作:創樹社
♪ ディズニー映画「美女と野獣」(ポット夫人) 主題歌「美女と野獣」
1994 Musical「The Singing」 演出:鈴木完一郎
音楽:樋口康雄
1997 ライヴコンサート at 南青山マンダラ 市川秀男ピアノトリオ
ライヴコンサート at 南青山マンダラ 青木弘武ピアノトリオ
1998 NHK BSテレビ「ジャズ喫茶」出演
ライヴコンサート at 南青山マンダラ
1999 ライヴコンサート at 南青山マンダラ
2000 「三文オペラ」(ジェニー役)神奈川県民ホール 演出:加藤直
ライヴコンサート at 南青山マンダラ ピアノ:美野春樹
2001 ライヴコンサート at 南青山マンダラ(ビートルズ特集)
2002 コンサート「なべとポプラ 第一章」(石鍋多加史とポプラのジョイントコンサート)すみだトリフォニー 小ホール 構成・演出:村田大
ライヴコンサート at 南青山マンダラ
テレビ東京「旅の香り 夢の遊び」(金沢の旅:岸田今日子さんと出演)
2003 ライヴコンサート at 二和公民館(ビートルズ特集)
「金沢レディースフォーラム・Let's」(岸田今日子さんの講演会にゲスト出演)石川厚生年金会館
Charity Christmas concert「ポプラ・その愛」市川市文化会館 小ホール 主催:文化宅急便
ライヴコンサート at 南青山マンダラ
2004 ライヴコンサート at 南青山マンダラ(Sing with Bass) Bass:加藤真一
大橋弘枝・Video.DVDプロジェクト参加「Don't stop dancing」歌唱
Charity Christmas concert「ポプラ・その愛2」市川市文化会館 小ホール 主催:文化宅急便
DVD「わんぱくダック夢冒険」ディズニー
2005 ライヴコンサート at 南青山マンダラ(遥かなる旅路)
Charity Christmas concert「ポプラ・その愛3」市川市文化会館 小ホール 主催:文化宅急便
CD ANIMEX 1200シリーズ「紅い牙-Blue SonnetT・U・V」「マジシャン」
2006 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部
ライヴコンサート at 六本木STB139(Sailling〜いま、祈りをこめて〜)
Charity Christmas concert「ポプラ・その愛4」市川市文化会館 小ホール 主催:文化宅急便
豊島区文化講座「歌ってみよう、ゴスペル!」講師
自主サークル「ポプラーズ」(ゴスペル&ポップス)発足
2007 Charity Christmas concert「ポプラ・その愛5」市川市文化会館 小ホール 主催:文化宅急便
ライヴコンサート at 六本木STB139(Sailling)
2008 佐野音鑑例会・ポプラコンサート
ライヴコンサート at 六本木STB139(Sailling)
ポプラ・詩・歌「岸田今日子さんの思い出」<シアターX> 演出:村田大
2009 07/22 ライヴコンサート at 六本木STB139(Sailling)
11/25 チャリティコンサート at 二和公民館 (ふたわDEふぇすた) 主催:文化宅急便
2010 03/10 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部 音響:小松一之
05/21 ライヴコンサート at アートカフェ フレンズ
08/26 ライヴコンサート at 六本木STB139(Sailling)
10/12 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun
10/23 ライヴコンサート at 横浜YCC
11/12 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部
12/11 コスモス芸術祭<栃木県岩舟町>2010
2011 01/28 ライヴコンサート at Main Dining Tokyo (New Year Live)
03/25 ライヴコンサート at 南青山マンダラ (私が出会った歌たち)
05/13 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部
06/24 ライヴコンサート at 横浜YCC
08/30 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun(Sing with Bass)
11/24 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部(CD発売記念Live)
2012 03/23 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部 (ギターと私)
07/20 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun
11/30 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部
2013 01/24 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun(with friend)
04/12 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部
05/18 ライヴコンサート at 六本木 KNOB(with friend)
08/07 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun(with guitar)
2014 07/25 ライヴコンサート at 神宮前 Zimagine
08/22 ライヴコンサート at 神宮前 Zimagine
11/07 ライヴコンサート at 麻布 東京さぬき倶楽部
12/11 ライヴコンサート at 神宮前 Zimagine (Sing with Bass)
2015 02/20 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun
04/11 ライヴコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
08/29 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun
10/29 ライヴコンサート at 原宿 Music Restaurant LaDonna
12/12 クリスマスコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
2016 05/27 ライヴコンサート at 神楽坂 The Glee
07/22 ライヴコンサート at 大塚 All in Fun
09/09 ライヴコンサート at 神楽坂 The Glee
12/10 クリスマスコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
2017 10/04 ライヴコンサート at 六本木 Keystone Club
12/07 ライヴコンサート at 南青山 Zimagine(Sing with Bass)
2018 02/14 ライヴコンサート at 南青山 Zimagine(Love Song)
04/27 ライヴコンサート at 南青山 Zimagine(with Guitar)
07/20 ライヴコンサート at 六本木 C*LAPS(Sailing)
09/29 ライヴコンサート at 鎌ヶ谷 Chorus Line
12/08 クリスマスコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
2019 02/22 ライヴコンサート at 南青山 Zimagine
03/30 岸田今日子フェスタ<両国 シアター]>
08/30 ライヴコンサート at 六本木 C*LAPS(Sailing)
09/30 VIVA80-KUMI ROAD To・・・中川久美 卒寿のお祝いステージ<東京芸術劇場シアターウエスト>
11/29 ライヴコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
2020 05/27 ライヴコンサート at 南青山 Zimagine
07/10 ライヴコンサート at 六本木 C*LAPS
11/26 ライヴコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
2022 04/08 ライヴコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
04/30 小森昭宏作品集をうたう<両国 シアター]>
11/02 “Songbook”を紐解きながら #1 at 南青山 Zimagine
2023 04/21 ライヴコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD
12/16 “Songbook”を紐解きながら #2 at 南青山 Zimagine
2024 04/12 ライヴコンサート at 築地・汐留 BLUE MOOD



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Biography

♪今までのこと☆

2020年1月25日で、歌手になって50年が過ぎた。私のプロフィールでは、1978年からしか記されていないが、その前にも歴史はある。
あの頃は、周りにあまりにも色々作らされすぎていて(でもあの頃はみんなそうだった、今だったらすごいことになる)抵抗があったこともあるし、 1978年からは、歌手として自分の信念で生きられるようになった時期でもあるのだ。

〜 debut 〜

1970年1月25日 新宿厚生年金ホールでフルバンドでデビュー曲 “チビと坊や”を歌い、ビクターターワールドグループのレーベルから歌手としてスタートした。作詞:川内康範、作曲:ながいじゅん。
演歌の作詞家、川内さんが初めてフォークソングを書いたというふれ込みだった。(そのころは、もうフォークソングは、次の時代を迎えていたように思う。)

そのころ姉が芸能界にいて姉の紹介でビクターのオーディションを受け、すぐにデビューが決まり、良くわけのわからないまま、歌手になってしまった、というのがあの頃の気持ちだった気がする。今も思うけれど、芸能界の西も東もわからないまま、良く臆することもなくフルバンドで歌って仕事ができたのかが不思議だ。“若さ”の一言に尽きるかもしれない。

中学、高校時代までは、クラシックで声楽家になるよう音楽の先生に進められていたけれど、家族には芸術の道に行くことに理解をえられなかった。
姉がサポートすると言って頑張ってくれたけど、芸大の先生にレッスンをうけたり、ピアノの先生や何人もの先生につかなくてはならず、あまりにもお金がかかりすぎるので姉には、負担が多すぎると思い、声楽家になる夢は断念した。あのころは、ソプラノだった(今は信じられないけれど)

ずっとクラシックに心酔していたけれど、ポップスの世界に行ってもなんでも歌えた気がする。デビューしてすぐ、英語の歌をレッスンするよう事務所(そのころは、ビクター芸能所属でした)から言われ、ジャズピアニストの方にレッスンをうけましたが、“すぐ、英語の歌でも仕事ができますよ”といわれた。ずっと英語が好きだったから役に立ったのかもしれない、そして英語の歌が大好きになった。

1月にデビューして、4月には国賓としてソヴィエトに演奏旅行に行くことが決まり、コーラスグループの方々、カンツォーネの方、ジャズのサックスの方とソヴィエト18共和国でコンサートをした。シルクロードの方まで行き、ハードな長い旅だった。(キャビアをたくさん食べた)

どこも映画に出てくるような古い素晴らしい劇場で、私たちは行く先々で、新聞に載り、毎日サイン攻め、みんなスターだった。お客様はいつも満員で暖かかった。最後は、モスクワのエストラーダ劇場で歌った。(その時にファンになってくれた17歳の女の子とは、一昨年まで文通が続いた。)帰国後、ソビエトのポップス(タパリャ、ポプラの木の意味)を自分で詩を書き2枚目のシングルをだした。

2枚のシングルもヒットせず、このまましっくりこない芸能界にいることに疑問をもち、3年の契約を2年でやめさせていただいた(大変でしたが)。
ここで歌手として第1回目の挫折を味わう。

〜 sister 〜

姉は、東京舞台芸術学院を卒業したが、新劇は自分にあわないと言って、近藤玲子さん率いるよみうりランドの水中バレエ団に入り、努力の末、魔女の役をいただき、水中で3年踊っていた。
その後フジテレビのテレビナイトショウという番組でパントマイムをやったり、自分の本当にやりたいことを探しながら色々なことに、チャレンジしていた。

そのころに姉は、岸田今日子さんとの出会いがあったり 又、世田谷代沢に住んでいて、近くの喫茶店で森茉莉さん(森鴎外さんのお嬢さん)とよく会ってとても気があい友達になったりして面白い時代の中にいたが、結局は日本で自分の居場所が見つからず、森茉莉さんも色々相談に乗って下さり、三島由紀夫さんにも手紙を書いてくださったりして、その手紙の返事は、今はとても忙しいので自分は力になれないが、舞踏家の土方巽さんを紹介します。と書いてあった。姉は、しばらく土方さんのところに通ったが、とてもついていけないと言って結局アメリカに渡った。
1970年1月に私がデビュウして、11月に姉はアメリカボストンに旅立った、奇しくも姉がアメリカに着いた日、三島さんは亡くなった。

姉がアメリカにわたってから、岸田今日子さんが、姉のようになってくださり、今日子さんの亡くなるまで本当の家族のようにだいじにしていただいた。森茉莉さんには、姉の伝言をもって、時々部屋を訪ねた。そのころ“甘い蜜の部屋”という本が、出版された。
その後、茉莉さんは週刊誌に記事を書いて話題となったりもしていた。

というわけで、姉がアメリカにわたりアメリカの様子を、いつも興味深く手紙に書いて送ってくれた。ワクワクすることばかりが書いてあった。
私がビクターをやめたそのころ姉は、ボストンでオーディションをうけて、オリエンタルダンスカンパニーに入り、ラスベガスのサンダーバードホテルで踊っていた。
そして私をアメリカに招待してくれたのだ。1973年春、私も一人アメリカに旅立った。もう芸能界ともさよなら、という気持ちだった。

〜 fever heat 〜

ラスヴェガスで飛行機を降りた時、凄い熱風を感じたことを覚えている。砂漠の真ん中に作られた別世界だ。 昼も夜もなく、あんなに暑いのにリムジンから降りるLady達は、凄い毛皮をはおって、お洒落なドレスを着て男性たちにエスコートされ、ホテルにはいる(ホテルの中は、ギンギンに冷えている)ギャンブルと、お酒と豪華なshow、着飾った女たちと男たち、煙草を勧めるバニーガール達。
目にするものは、刺激的なものばかりだ。(私は、初めてロールスロイスにのった、姉のカンパニーのデイレクターの車でしたが)1ドルが360円の時代。

昼は、ホテルのプールで泳ぎ、夜は姉のshowを見に行った。そのころは、Hiltonでプレスリーがcome backしていたころで、そのチケットはいつも完売だった。姉が休みの時は、沢山showを見に連れて行ってもらった。どれも凄いshowで素晴らしかった。
厳しいshow businessを生き残った人々のステージ。姉たちのcompanyもそうだったが、毎回、舞台監督にチェックされ、NGは許されない。だめだったらいくらでも力のあるアーチストがいるのだ。

ダンサーたちは、体重も凄く気を付けなければならない。華やかなshow businessの悲喜劇。
Hotel Dunesだったと思うが、ダイアナロスのShowを見た。いい席がないといわれたが、チップを200ドル渡したら、前の方の真ん中の席を用意してくれた。やっぱり(笑)。
彼女はシュプリームスをやめた後で、soloの美しいステージだった、家族の映像もでて、今、お腹に赤ちゃんがいるといっていた。
アメリカって自由なんだなと思った。最後の方で“Reach out”の曲で客席に降りてきて、手を差し伸べてくれ握手、感動でした。

もう一つのShowは、なんといってもエンゲルベルトフンパーディンク、すごーーくsexyで大ファンになった。(ラスヴェガスの仕事を終わって、姉の本拠地ボストンにかえるのだが、そこでも彼のコンサートがあり、表で並んでいたら、マネジャーが、彼に会いたいか?と聞かれたのでyesと言ったら、楽屋に姉と私を案内してくれてお話した。ステージも最高!だった)

ラスヴェガスの夢のような時間。毎日、めいっぱいおしゃれしてshowを見に行き、姉の友達の豪華なお家に泊まりに行ったり、大きなボートで遊びにつれていってもらったり、私は仕事ではないので、多いに楽しんだ(姉は、仕事で大変だったと思うが)。

姉の契約が終わるのでそのあと、姉とともにボストンにいく。楽しい贅沢なラスベガスの日々、姉に感謝(去年49年ぶりに、姉はラスヴェガスを訪ねた。今は姉がいたころとは、まったく違っていて、姉が仕事したホテルもないし、すべてが変わっていてショックを受けていた。私にも行くようにといっている、時は過ぎて行っているのだ)。
Goodbye Las Vegas, Hello Boston ♪

〜 enjoy 〜

Bostonは、New Englandの美しい落ち着いた街だった。学術都市というのでしょうか、時間がゆっくり流れていて、のんびりしていて、沢山の大学があり、又チャールズ河を渡るとケンブリッジで、Harvard大学、MITなどある。姉がアメリカの拠点にしたところで、世界中に行ってもいつもここBostonに帰ってきた。
姉の小さなアパートメントに居候して、姉もVacationに入ったので思い切り2人でAmerican Life を楽しんだ。ラジオからは、いつもどんなジャンルの音楽でも流れ1日中聴けた。Jazz, Pops, Rock, Classic,

今なら珍しいことではありませんが、当時の私にとっては夢のようなことでした。 God father、ある愛の歌(この映画はBoston の街が舞台になっている)の主題歌、そしてCarol Kingの曲などが流行っていて、いつもながれていた。Pops最高!の気持ち。
街の中心、Copley Squareには、Old churchがあって、Boston Common の大きなParkの池にはDuckたちが泳ぎ、その近くには、Bostonの高級住宅地 Beacon Hillがある。古いレンガ造りの家並みはとても雰囲気があった。
Boston美術館、イザベラガードナーのMuseum(ここは私たちのお気に入りで、何時も行きました)、Boston Symphony, Boston Popsオーケストラ, たくさん楽しみました。
夏には、夕暮れからチャールズ河の傍で、Boston Popsのコンサートがあり、無料で素敵な音楽を聞かせてくれる。町中の人が毛布やたべものをもって、寝転びながら、夜空の星をを見ながら、贅沢な音楽を鑑賞するのだ。

又あのころは、Discoがはやっていて、クラブには、プラターズが良く来ていて、往年のHit Songを歌っていた(煙が目にしみる など)、遅くまで踊ってShowを楽しんだ。
今は、Bostonには、昔のようなライブハウスはないが、昔は沢山のJazz Musicianたちが来ていた。スタン・ゲッツは、何度も聞きに行ったし、テディ ウィルソン、ハービーマンも良くきていた。懐かしい。

姉の友人を尋ねてCanada のモントリオールにもバスで行きました。そこはフランス語圏で、ヨーロッパの雰囲気だった。ケベックというお洒落な街にも足をのばし又アメリカとは違った世界を味わった。

New Englandの紅葉は本当に美しい。秋になるころにはアメリカ生活にも慣れて、バークリーJazz学校へ行っている日本人の人たちにも会った。
今でこそバークリーは日本人でいっぱいだが、そのころは本当に少なかった。ミッキー吉野さんもいらして、お部屋にみんなで遊びに行ったことがある(その後、私はGメン‘75でミッキーさんの曲に出会う)。彼はゴダイゴのデビュー前だったのだろうか?
そのころ、Bostonにいた人たちは、沢山の伝説的な話を知っていて、渡辺貞夫さんがバークリーにいたときのこととか話していた。
みんな本当に苦労して、勉強した時代です。
私も姉と一緒に、黒人のJazzの先生に歌を習いに行った。凄い面白い先生だった。Nice'n easyとかThe way you look tonight、ディオンヌワーウィックの曲などレッスンしていただき自由に歌わせて下さって、先生の存在そのものがJazzだった。

そして極寒の冬を迎え、いよいよ帰国。私は、唯々平和に、仕事のことも考えることなく、姉に世話になって1973年のアメリカ生活をエンジョイしました(一度だけNew Yorkにも遊びに行きました、ロックフェラーセンターでみんながスケートをしている光景だけ覚えています)。
なんの欲もなく、幸せな結婚に憧れる年ごろでした。

〜 dance 〜

初めての渡米から帰国し、1979年にヨーロッパからアメリカに行くまでしばし時間があいていた。 この間、私は結婚をして幸せな人生を歩いていくつもりだったが、色々あり結婚することは、やめてしまった。

何かしなくてはならず、丁度そのころ東宝芸能でパッケージshowの歌手を探しているという話があり、すぐに決まった(結局、芸能界にもどってきました)。 今までは、solo歌手で一人で舞台で歌うだけだったが、そのパッケージshow は、日劇ダンシングチームのお兄さん、お姉さん方の中にゲスト歌手として入り、踊りながらJazzや、Latin、Popsの数々を歌うというものだった。演出家、振付家の先生方がいらして、しっかり構成されたshowだった。
まだ若く子供だったと思う。大人の皆さんの中に一人子供がいたという感じだったと思うが、唯々無我夢中で一生懸命だった。

ステージングされた振り付けは、家で寝ずにリハーサルした。本当に大変だったが、私は背も高く舞台には、向いていたらしく、その後もポプラshowも東宝で作っていただき、沢山仕事をしたと思う。
悩みの種はダンスだった。怖い先生に怒鳴られて、随分泣いた(トイレで)。その後もずっとそのことが、コンプレックスとなり、Musicalをやるようになってからも、そのことが後を引いた。

その時期は、個人事務所に入りとても良いマネジャーがついて下さり、その方は元ダンサーだったかたで、舞台に立つノーハウを根気強くおしえてくださった。(手とり足取り、厳しかったけれど、後々ずっと役に立った)
毎日のように、舞台を見にきて、たくさんのだめだしをしてくださり、本当に私を育てて下さったと思う。 華やかな衣装を着て,何秒かで舞台そでで早変わりしたり、舞台裏は、戦争だった。

沢山のことを、やらせていただき、唯々夢中で生きた。旅の仕事もあったし、ホテルのshowもたくさんやった。 最初は、旅の仕事は、普通車指定席だったけれど、やっとグリーン車をとっていただけるようになった。新人から中堅になったのだ。

☆(このころ、今のB♭というライブハウスがコルドンブルーという高級ナイトクラブだったころ、私もメインゲストで1度出演したことがある。1か月公演だったと思う、毎日3回ステージで、showは、凄い早いテンポで次々と展開していくものだった。ある夜3回目のレイトショウに1組だけのお客様が真ん中の席にいらした、ジョンレノンとオノヨーコさんだった。わたしたちは、2人の為に、歌い踊り、コメディアンのかたは、コントをした。懐かしい思い出。)☆

そして又新しい季節がやってきた。

〜 musical 〜

1977 年、東宝の仕事で、振付家の中川久美さんにお会いした。私の景をステージングしてくださり、演出は竹村邑さんだったと思う。
あんまり踊れないわたしをダンサーのように踊れそうに振り付けしてくださり、とても好評だった。

その後、中川先生から、musical show ”People78“ に出ないかとお誘いがあり、当時の郵便貯金ホール(今のメルパルクホール)で新しい経験をした。
音楽 前田憲男、演出、振り付け 中川久美、若手のこれからのアーチストを起用し、ワクワクした作品だった。久美先生のNew York時代のお友達も来日し出演していて、最後のステージの時、舞台そでで “絶対New Yorkに勉強にきなさい”と言われた。
その時、業界のたくさんの方々が見てくださり、お声をかけてくださった。そして私はMusicalに夢中になった。

New Yorkにいくためには、せっかく私を育てて下さっている事務所に迷惑をかけることが重くのしかかってきたが、良くお話して理解していただくしかなかった。「せっかく築いたものを、どうしてすててしまうの? あなたのような不器用なひとが、この芸能界でやっていくのは大変よ」と言われた。
そのことがずっと頭をはなれなかったが、確かにそのとおりだったと思う。

不器用に、でも自分らしく生きてきた人生。
そしてこの間にも、恋をして結婚に悩んだが、仕事に生きることを選んだ。それからは、歌って生きることにぶれることなく、進んで行った。(そのころは、仕事か、結婚かのどちらを選ぶのかという時代で、今では、考えられない古い時代のこととなったが)

この時期、必死で無我夢中だったけれど“ステージに立つ”ということ、“仕事をする”ということを学ばせていただいたと思う。そして私を根気よく育てて下さった事務所の皆様に今も感謝している。

1979年1月、姉のいるギリシャへ旅立った(姉の仕事している、ギリシャ、スペイン、スイスによって、憧れのNew Yorkへの予定で)

〜 deja vu 〜

1979年 1月18日、ギリシャはアテネに着く。(この日付けは、覚えていたわけではないが、姉が私のホテルの部屋のナイトテーブルに可愛い大理石を彫ったふくろうと金色のふたりの小さな歌う天使の置き物をおいてくれて、フクロウの底に日付けが何とかのこっていて、あれからたくさん引っ越ししたけれど、この二つは未だ手元にあり、アメリカにも引っ越ししたりしたけれど、よくぞここまで一緒にきてくれたと、感慨深いものがある、多分ついた日に書いたと思う)。

air portには、姉とダンスカンパニーの皆さんが、出迎えてくれた。
アクロポリスの丘が照明に照らされて美しく、“あー、来たんだな、ギリシャだ!
冒険の始まり、みんなと朝まで話した. 凄くおいしいヨーグルトの味が忘れられない。

オリエンタルダンスカンパニー、スターのkeigoさんは変わらないけれど、あとのメンバーは、‘73年ラスベガスで見た人たちとは、かわっていた。何人かの日本人のダンサーの方たちは、東宝のShowで一緒に仕事をした方たちで驚いた。オーデイションを受けて入ったと言っていた、世間は狭い。

私は、毎日アクロポリスの丘に歩いて行き、円形劇場や、岩山を登ってアテネを満喫 した。パルテノン神殿を初めて見たとき、今までの色々な思いが堰を切ってあふれて、涙がぽろぽろと流れて泣いた。
遠い遠い昔、今生ではない時代に、ここにいたのかもしれない、と思った。とても不 思議な経験だった。

〜 vacation 〜

アテネの街は埃っぽい、せわしい街だった気がするが、アクロポリスと美術館は、素敵だった。ポセイドンの像は、今も覚えている。ヴァケイションのわたしは、幸せの一言に尽きる。招いてくれた姉に感謝だ。飛行機代と生活の面倒をみんなみてもらってのヨーロッパの旅なのですから。

1週間くらいアテネにいて、それからダンサーの皆さんもvacationでみんなでスペイン バルセローナに汽車で移動する。
バルセローナにも1週間くらい滞在したと思う。美味しい沢山の種類のパエリャ、ハモン、本当に美味しかった。白ゴリラと、沢山の種類のフクロウがいる動物園、街を歩き回ったこと。

姉と一緒なので怖くなかった。そしてカンパニーの次の仕事場所、スイスのジュネーブに又汽車に乗って発つ、2月の初めで着いたときは雪が降っていた。

タクシーで小さなホテルに。なんか映画の世界みたいだった。(皆さん旅慣れていて、休みの時は旅に出たりして仕事のリハーサルの開始までひと時の自由を楽しんでいた、仕事が始まればハードな毎日が続く。)

不思議な夢の世界のような、“頽廃”という言葉がぴったりのホテルにはびっくりして、私と姉は、次の日に“明るい健康的で家庭的なキッチンつきの小さなホテルに移った。

ジュネーブでのLifeの始まり、ワクワク、ドキドキ!

〜 innocence 〜

Swiss GenevaはMatterhornの頂きが雪をかぶっているのが見え、凍り付いたレマン湖には美しい白鳥や水鳥が舞い降りていて、何とも言えない景色で、本当に寒かったけれどその景色は今も忘れられない。

毎日、美味しいフランスパンとチョコレートを買いにいった。Vacationの自由な気持ちが思いきり想像力を働かせてくれて、私をいいエネルギーでいっぱいにしてくれた。

言葉はフランス語とドイツ語なので会話はできなかったけれど、フランス語の響きはいい感じで英語とはまた違っていて、“なんでフランス語で話せないのか”となんども聞かれたが、英語も自由ではないのに、フランス語までは無理。
Genevaにはたくさんのいい思い出があり、姉とあの頃の話を今でも話す。ドラマチックなこともたくさんあって、中々経験できない贅沢な時間を与えてもらったと、今でも思う。
夜、おしゃれなレストランやナイトクラブにいくと、“マダム”とか言われて、私は“マドモアゼル”といってもらいたかったのにと言うと、大人の“Lady”のことは、“Madam”だそうだ。 何か大人びた気持ちになって、無邪気な好奇心でいっぱいの時だった。

姉たちのshowは、そのころGenevaでは最高級のNight Club“シェ マキシム”で公演された。週1回の休みで、夜2回のshowで約2か月公演だった。
Las Vegasと同じようにハードなスケジュールだった。

私だけが、自由で毎日2回目のshowにお洒落して出かけて行き、showが終わるのを 待って、帰りに皆で看板スターのKeigoさんのお友達のSusieとWillyの経営するレス トランに食事に行った。夜中の1時とか2時だったと思う。Susieは金髪の美人でWillyは凄くハンサムでみんながほれぼれするくらいのgentlemanで素敵なカップルだった。

その二人が、私たちをいつも案内してくれて、船でお城巡りのツアーや色々なところ にドライブに連れて行ってくれた。他のNight Clubのshow(いくつかのshowは脱帽 するくらい良くて楽しんだ)も案内してくれたり、グリエールまでいって本当に美味 しいチーズやたくさんの種類のフォンデューもいただき、ほんとうにエンジョイし た。
Genevaにいる間、FrenchとItalianの料理は、姉のおかげで、最高のものを頂い た。(ある高級イタリアンレストランに招かれていった時、シャルルアズナブールが 来ていてサインをいただいた。Genevaのあと、New York に住んだ時カーネギーホールでアズナブールのshowを見たが、圧巻だった、みんなお金持ちは、Swissに住んでいるのだな。)

〜 Chocola Easter egg 〜

美味しいwineとchampagneも勿論、凄い贅沢な時間を味わった。アメリカに行った ら、美味しいワインとシャンパンは飲めないから、ここで思い切り味わっていきなさ いといわれた。

そうこうしているうちに、カムパニーから、週末だけゲストで歌わないかという話が きて、私もホテル代くらいは、働きたいと思ったので、その仕事を受けた。

わたしは、何か機会があることの為に、日本でお金をかけて作った1番良い衣装を1着 もってきていた。(あのころは、毎月お衣装を、とあるデザイナーのかたに作ってい ただいていて、私もお金持ちというか、収入があったのだなあ、みんなお衣装と譜面と勉強するために消えて行ってしまった)(笑)

Get it on, I`m on fire, C`est si bon, It`s impossible, を歌った気がする。

姉と一緒にステージに立てて嬉しかった。ある日私の凄いファンになってくださったかたが現れて、毎週見に来て下さり、私たちに本当によくしてくださった。
人生が与えてくれる、出会い、ドラマ、色々あって面白いものだとつくづく思う。

姉は私が単身でNew Yorkに行くことをとても心配していて気をもんでいたが、私はそのためにこの旅を決意したのだから、何としても行かなければならないと決めていた。

私をNew Yorkで正式に勉強させたいと言って下さった方もいたが、色々自由を束縛されるのもいやだし、その話は無しにしていただいた。

3月も終わりのころは、急に春めいて、雪と氷の街から一変し、公園には沢山春の花が植えられた。Genevaでの贅沢な時間ともお別れの日が近づいた。

姉たちは、Canada モントリオールのQueen Elizabeth Hotelのshowが決まっていて4月の初めに出発した。何か寂しく悲しかった。
わたしは1人残り、New Yorkへ行くために準備した。いよいよこの旅の本当の目的のための時間が始まる。

大好きなSusieとWillyに見送られて New Yorkへ(イースターが近いので両腕で抱えるほど大きいイースターエッグを{チョコレートでできたイースターエッグ、中にはチョコレートやキャンディー、マロングラッセなどがつめてあって、凄くおいしいもの}を持たせてくれた。)さよなら、Geneva、ありがとう、優しい人々、贅沢な時間。

さあ、NewYorkへ出発!

〜 New York 〜

1979年4月10日、私は、New York JFK空港に降り立った。
何かN.Y.独特の空気。案内カウンターに行って、安全でリーズナブルなホテルをさがしてもらった。
カーネギーホールに近いホテルを予約してくれて、タクシーでマンハッタンに向かう。タクシーの運転手さんが、わたしがこれからN.Y.で勉強するのだと言ったら”あなたは、勇気がある”と言われた。

確かに後で思うと、NYCは本当に色々な意味で危険がいっぱいで、緊張感のある街。そこが面白いところなのだが、慣れるまでは大変だった。
以前住んだことのあるBostonは学術都市で、学生たちが素晴らしい環境で勉強できる。 のんびりしていて、皆んなフレンドリーで親切でわりと安全だったが、NYCはBostonとは全然違っていた。みんな自立してないと、とんでもないことになる。
みんなクールな感じがした。(後に少しの間住んだホテルのエレベーターladyは、“何階か?”と聞かれ、私は“Twelfth please”と言ったが“what? What?”と何度も聞き返され、“ああ、Bostonだったら、みんな“まだ英語ができないんだな、12階なんだろうな”と優しく思いやってくれただろうな、などとついかんがえてしまった。Twelfthの発音は難しかったのだ)
みんな厳しい現実と戦って、その場所を勝ちとった、というような雰囲気で、その張りつめた空気がNYCの魅力なのだ。 何でもハッキリしなくてはいけない、恥ずかしがっていたらおいていかれてしまう。
人生の悲喜劇、TopとBottom, それをハッキリと感じさせる空気があった。

タクシーからマンハッタンの摩天楼が見えたとき、“NewYorkについに来たのだ”と叫びそうになった。
新しい冒険が始まるのだ。

〜 learning 〜

ホテルに着いて、すぐにMrs.Fay(people'78の作品で会った中川久美先生の親友)に電話した。 事前に手紙で色々しらせてあったが、何時着くかは知らせていなかった。
すぐに会いに来るように言われタクシーでFayのアパートメントに行く、Fayの家族の皆さんが待っていてくれた。
Fayのご両親、ご主人、双子の男の子を紹介していただき、ヨーロッパでの話、これからのことなど話し、その後Fayのご家族の皆さんには、本当にお世話になり、NYCでの暮らし方を一つ一つ教わった。

Fayは忙しい中を、busの乗り方やもう少し慣れるまで、地下鉄には乗らないこと、夜7時以降は、外に出ないことなど、しばらく安全にすごすように教えてくれた。
そのころは、本当にNYCは、恐かった。地下鉄で銃撃事件が頻繁にあったりして、各車両ごとに、policemanが立っていたし、日本では考えられない緊迫した空気があった。

数日して、FayがEastsideにある、とても由緒ある安全な女性だけを受け入れるアパートメントホテルを教えてくれて手配してくれた。 アーティストの卵たち、役者やダンサー、歌手になろうという人たち、オーデイションを受けようとする人々、モデルの卵たちが世界中から来てそこを拠点に行動していた。
こじんまりとして綺麗な歴史あるホテルだった。

それからVisaを取るために、NYUの英語のクラスに入学した。
又、色々なLessonを受けるための諸々をMrs.Fayに教わって、学校のことも、皆一緒に行って下さり本当にお世話になった。
季節は、まだ肌寒かったが素晴らしい春、爽やかないい季節だった。

学校に行くことに慣れなくてはいけないので、最初は学校に集中して、又色々なレッスンの取り方も覚えた。
最初はバスで行動した。学校は色々な国から来た人々で、日本人はいなかった。
英語と、レッスンを受けること、主に苦手なダンスを少しでも上達させること、ブロードウェイのMusicalをできるだけたくさん見ること。
“新聞”には、沢山の情報が詰まっていた。週一で新たな情報がでるので分厚い新聞 を買いに行く。

Fayからなるたけ目立たない洋服にすることを厳しく言われた。危険なのだ。
バッグも抱えて、なるたけ何も持ってないように見えるように。

今は、すっかり安全なNYCだけれど、本当に '79年のNYCは緊張感があった。 でも暮らし方がわかってしまえば、そこは歌にあるように最高の街、Show Businessのすべてがあるあこがれの街なのだ。

〜 the best time 〜

New Yorkは爽やかな美しい季節だった。私はとてもラッキーで、Mrs. Fayの住むアパートメントビルの1室を格安で借りられることになった。 Fayの友人のお母さんが、しばらくヨーロッパに旅にでていて部屋が空いているので貸して下さるとのこと。なんて運がいいのだ!
部屋は、studioで1階はKitchenと広いLiving, 家具付き。中2階があり、そこはBedroom, Bathroom,とClosetがついていて、快適なLifeが遅れるよう、すべて生活に必要なものは準備が整っていた。(この部屋のことを今も思い出す。“あんな部屋に住めたら良いな”と)
本当に感謝した。言葉では言えないくらい! これから、やっと落ち着いて勉強生活ができる。

地下鉄にも乗れるようになり、最初のうちは学校に行くことと、色々なLessonも昼間だけ受けた。
Musicalもマチネを見た。帰るまでに沢山の作品を見たかった。
学生の身なので高いチケットは買えないけれど当日のHalf priceチケットをTime squareのBox officeに並んで買った。 何もかもが、わくわくで沢山の夢で胸が高鳴っていた。
地下鉄は空気がよどんでいて、埃っぽく、独特の匂いがした。 何といってもおどろいたのは、地下鉄のtrainの外側の落書きだ。 どこでこんなことが画けるのだろう、芸術作品に見えたし、とても楽しんだ。 気を付けて乗らなければいけなかったけれど(今はすっかり落書きもなくなりきれいなtrain)スリリングな日々。

New York Universityの英語クラスに通うときは、Washington Squareで降りて地下鉄の階段を上ると、いつもバスケットボールをやっている少年たちがいた。 Westside Storyの映画を思い出した。
大学の庭でゆっくり多様な人びとを見て楽しんだ。 VillageにはItalian Cafe が沢山あり、美味しいエスプレッソを飲みながら、ヨーロッパでの日々を思い返したり、映画の舞台になったこのあたりを探検した。 贅沢はできないけれど、襟を正して勉強する生活を送った。
それは、今思えば“人生最良の時”の一つに入る。(最良の時は一つでないといけないかもしれないが)

〜 Lesson, Lesson, Lesson!! 〜

Martha grahamのスタジオにいくようにFayから勧められ、最初に行った。
初級の前のクラスで、踊るための体を作る丁寧なレッスン。何もわからないまま、日本で歌って踊って仕事して、限界を感じていたことを思い出し、ここにきて勉強できることに感謝した。
Martha Grahamにも1度お会いした。相当なお年とお見受けしたが、美しい方だった。中川久美先生もFayもGrahamで修行したのだと思う。

学校のない時は午前と午後、慣れてからは夜のクラスも受けた。毎日、疲れ果てて泥のようになって眠った。
ヨーロッパでの、あのおしゃれで贅沢な Life は遠い昔のようだった。私は唯々Lessonを受けまくった。
カーネギーホールの上にあるスタジオでTap dance class, LuigiのJazz Dance Studio, Luigi自身に直接レッスンを受けられた時代。とてもやさしく教えて下さった。

スタジオに額がかけてあってそこには“Put your hand on your heart, Listen to the sound of your soul”と書かれていた。Luigi自身の言葉だ。
私は、その言葉をとても気に入って大事にした、歌も同じだと思ったから。

〜 Times Square 〜

Alvin Ailey のスタジオは、Times squareにあったので、NY Lifeに少し慣れてから行った。
色々なクラスがあり、それはとても興味深いものだった。その1つにDunhamクラスというのがあって、黒人の女性の先生が手にもった太鼓を叩いて、そのリズムで飛んだり跳ねたりというか、すごい迫力で良くわからないままついて行ったが、凄い強烈で不思議な経験だった。
最初にこのクラスを受けたときエレベーターホールに東洋人の女の子が床に座っていて、私はよく解らないことだらけで、思わず“日本のかたですか?”と声をかけた。
そして“はい”とこたえてくれたので、すごくうれしかった。彼女の名前は“Yasuko”でおなじクラスを受けるとのことだった。
色々とクラスの情報を丁寧に教えてくれ、New Yorkの情報もたくさん教えてくれた。日本から役者としての自分を深めるためのに単身やってきて、TV関係の仕事をしながら勉強しているとのことだった。
その日、地下鉄まで一緒に帰った時、あまりにもTimes Squareの人混みが危険な感じで、私がオドオド歩いていると防護しながら歩いてくれて有難たかった。
NYに一人で、誰も頼らずに来て、生きているなんて本当に偉いと思い尊敬した。

Alvin Ailey で会ったjazzの黒人の先生が昼間も自分のスタジオで教えていることを教わって、Yasukoとそのスタジオで何度か会った。
その場所はTimes Square 42丁目をもっと入った危険そうな場所で、決して人と目を合わさないように、という感じ。
でも、その先生のClassの教え方は最高だった。New York! New York!
沢山のだんすスタジオに通ったが、ビックリしたことの一つは稽古着に着替える時、日本だとなるたけ人に見られないように着替えるが、ここではみんな、人がいても平気で“パッ”堂々と全部ぬいで着替える、その大胆さに驚かされた。日本では考えられない!

〜 Frugal Life 〜

日本から持ってきたお金ですべて賄わなければならないので、本当に倹約しながら生きた。
Fayや家族のみなさんに心配をかけないようにと、いつも思った。
なるたけ歩いて行けるところは歩きLessonに通い(アメリカのワンブロックは凄い距離があったけど)自炊して(お米、お味噌、お醤油を買って、みそ汁、肉じゃがをよく作った。母が良く教えてくれたので、煮物は結構得意だった)
Fayのお母さんが時々夕食に誘って下さり、American FamilyのSupperを楽しんだ。
Mamaは、Pianoも弾いてJazzを歌ってくれた。私がたくさん勉強しなければ歌えない歌を容易く歌うのだ。
本当に nativeの人は、いいなと思ったりした。(何年か後、NYに行った時に、Fayのところで、子供のAlexとTonyが小学生になっていてブレイクダンスを踊ってくれた。
衝撃的だった。どこで習ったの?と聞くと”学校“と答えた。その後世界中で流行ったブレイクダンス、凄くかっこよくうまかった。みんな仲間同士で覚えるのだな。
その時代は、地下鉄に乗っても。Streetでもラジカセかついで、みんな踊っていた時代だ。何か楽しいのんびりした、いい時代だったんだなと思う) (続く...)

〜 Birthday in New York 〜

5月はお誕生日で、BirthdayはFayの家族がCentral Parkで Picnic Lunchでお祝いしてくれた。
いくつもBalloon飾って、沢山の手作りのお弁当、こんな事って何て洒落てるんだろう、最高のBirthday, Central Parkでなんて幸せ、幸せ
皆さんから“super star”の文字の金のペンダントヘッドをいただいた。みなさんの願いがこもっていた。(Central Parkは歩いてすぐのところで、散歩にも随分行きました)
1979年5月、私はFayの家族に暖かく祝っていただいて、New Yorkで30歳になった。

Canada MontrealのQueen Elizabeth Hotelで姉は仕事をしていて、連絡がありお誕生日のプレゼントにMontrealに招待するので飛行機代を送ると言ってきた。
私は、Montrealにいかなくてもいいから、そのお金をプレゼントして欲しいと返事した。何せ凄いギリギリ生活なので生活費に廻したかった。
そしたら、お金はプレゼントするから、ともかくいらっしゃいとのことで、わたしは、汽車で行くことにした。Amtrakの古めかしい汽車に乗ってCanadaまで旅した。
汽車の旅もいいものだ、映画の中のような雰囲気、景色を眺め、異国をのんびりと旅し味わった。

〜 Meet Again 〜

Montrealに汽車で降り立ったわたしは、高級ホテルQueen Elizabethの姉の部屋をノックした。
Genevaで別れてから約2か月、姉の顔を見たら張りつめていた気持ちが一度に解けてポロポロ泣いてしまった。ヨーロッパでは華やかにお洒落だった妹が、異国で勉強に疲れ果てている貧乏な学生に見えただろう。
カンパニーの皆さんも快く再会を喜んでくれた。ホテルでの姉たちのShowを見てDinnerも楽しんだ。New Yorkに戻れば又倹約生活と勉強の日々、思い切り楽しんでいくように姉に言われた。
姉は、ここでの契約が終わったら、自分の本拠地Bostonに戻ると言っていた。世界中を旅して踊ることも十分やり終えたのかもしれない。

短い旅も終わり又NYへ帰る。姉はたくさんの食べ物を持たせてくれた。又会うことを楽しみに。
'73年に初めてアメリカに来た時、姉とBostonからバスに乗ってMontrealに姉の友達をたずねてきたことがある。色々なところにそのお友達ご夫婦が案内して下さり、その時どこに行っても流れていたり、演奏されていた曲は“Super star”だった。とても懐かしい。
あれからも姉は自分の夢を生き、追いかけ世界中を旅してきた。そして私もわたしの夢を生きていた。

〜 Entertainment 〜

Broadway Musicalは、Dancin', Ain't misbehavin', Eubie, Chorus line、Off Broadwayでは、Fantasticsなどが上演されていた。 すべてが洒落ていて素晴らしく、日本にいるみんなに見せてあげたいと思った。(Chorus lineなどは、随分遠くの席でかなしかったが、何年か後に又行ってよい席で見た) Bob FosseのDancin'は、衝撃的だった。
Eubieだったか、Ain't misbehavin'だったか忘れてしまったが、グレゴリーハインズのtap danceは最高だった。お兄さんと出ていた。“かっこいい!”の一言に尽きる。
その後、映画にもたくさん出て、日本でもパフォーマンスを見たが、相変わらず素敵だった。早く亡くなってしまって、とても残念。

Jazz clubにも行った。Villageには沢山お店があった。Village gate, Village Vanguard, Blue Note, Sweet Basil など。Sweet Basil は小さなお店だったが、 六本木にも姉妹店ができ私も5回ほどliveをやった。でも其のころは既にNYには、お店はなくなっていた。(2001年閉店)
音楽の譜面、レコードもたくさん買い集めた。今とは違って中々手に入らなかった時代だった。今では、考えられないが。

〜 a Motto 〜

毎日がレッスンの日々で、気持ちも張りつめていて、ダンスも中々振り付けが覚えられず悩んでいた時、Bus stopでFayのお父さんに久しぶりに会った時、なんか涙がポロポロ流れてきてしまった。
Daddyも驚いたと思う。“Popiが泣いていた”のNewsでFayが早速尋ねてきた。

中々上達しないことを話したら、“Never give up”と励まされた。Fayもこの世界にいた人なので、気持ちはお見通し。そんなすぐに上達するはずがないのだ。すべては積み重ねて行かなければならない時間、あせってはいけない。
“Never give up”は今でも私の座右の銘である。

〜 decision 〜

ある日、日本の中川久美先生から電話があった。オリジナルミュージカルを渋谷西部パルコ劇場でやるから、帰ってきて欲しいとのことだった。私にやってほしい役があるというのだ。すごくよく考えたのかおぼえていないが、それは大きな決断だったと思う。
持ってきたお金もたくさん残っているわけでもないし、仕事をすることは重要で仕事することを決断したのだ。

〜 soul mate 〜

Alvin Ailyで友達になったYasukoは、Hudson河の近くのアパートメントからVillageのMacDougal streetにあるアパートメントに引っ越した。(Blue noteのお店のちかくで、理想的なNYの生活だと思う)数回しか会わなかったけれど、志を同じくする者同士で、本当に良いお友達に出会えたと思う。
(その後私は、何度もNYを訪れることになるが、いつもたくさんのshowbizの情報を、もらった。その後彼女は、結婚して2人の子供を持ち、New Jersey に居を構え、其のころもいつもお邪魔してお世話になった。ご主人の仕事が日本に移ることになり帰国し、今は日本で生活している。)

〜 starting over 〜

私は、なけなしのお金で、沢山の譜面やレコード、珍しいお衣装を買った。そのころは、まだ日本には、スパッツというものがなかった。凄く綺麗な色の派手なスパッツをいくつか買って随分役立った。面白い衣装がたくさんあった。(船便で荷物は送ったのだと思う)
Yasukoにもさよならを言いに行った、それぞれが自分の道を歩いて行くことを祝福し合った。
部屋も綺麗にお掃除して鍵をおかえしし、Fayの家族にもお別れした。別れは、いつも悲しく寂しい。言葉には表せない想い。
1979年、エキサイティングなNewyork Lifeに別れを告げ、私は日本に帰った。
Newyorkで生きたことを思うと、もう何も怖くないと思った。若さとは、あどけなくエネルギッシュなものだったと、今は思う。
それからが、私の本当の歌手人生が始まりだった。

〜 Wish 〜

帰国して、現実を実感するのに時間は少しかかったように思う。
風を切ってギンギンだった。若いエネルギーは、今思うと恐ろしいくらい無邪気であどけなく、この性格は今も変わっていないかもしれない。
ああ、だから今日までやってこられたのだ、今思えば “脳天気” 願わくば、このまま最後まで無邪気に音楽をやっていられますように。
音楽の神様お願いいたします。

〜 Fate 〜

中川久美、作・演出・振り付け “Dancing Heroes”   音楽・樋口康雄、 西武パルコ劇場
作品の記者発表と顔合わせがあり、六本木で出演者の皆さんとお会いした。
今、思うと何か華やいだ時代だったと思う、今みたいにせわしい感じの時代ではなく、のんびりというか、まだアコースティックな感じというのだろうか、良き時代だったのだろう。
私の役は、このShowを運んでゆくような役で、最初、真ん中、最後にソロがあり、黒の総タイツで歌った。樋口康雄さん通称ピコの曲、3曲ともBluesyな良い曲だった。(作詞は望月さんという方だったと思う)詞も良かった。この作品でピコに出会い、その後CMの世界に紹介していただき、仕事が広がっていった。出会いとはは本当に不思議。

〜 Chance 〜

リハもたけなわのころ、主役の方がおりて、その役が私に回ってきた、色々事情があってのこととおもうので深くは触れない。とてもいい役だった、急なことだったが、唯々頑張った。
たくさんの方々が見て下さって、その後、色々仕事のお声をかけていただいた。
ピコがCM制作会社、ONアソシエイツの大森さんを紹介して下さり、初めてのCMを録った。ピコの曲で資生堂のエリクシールで“あざやかに生きて”という大曲だった。
その後Sonyのウォークマンや、丸井のインテリアなどと続いていく(曲はピコ)。丸井のインテリアは次の年も続いて、作曲家は,Jazz ピアニストの市川秀男さんだった。Jazzの雰囲気で市川さんのピアノはとても素敵だった。
その後80年代はたくさんのCMやらせていただいた。舞台だけで生活して行くのは大変だったので、CMのお仕事は、とても助かった。

〜 Audition 〜

久美先生の舞台の後、musicalのオーデイションも受けた。
Rock Musical “Hair” もその一つだ。奈良橋陽子さんの演出でパルコ劇場だった。
オーデイションは通ったけれど、長いリハーサル期間というよりも、ほとんどの人が学生さんだったので、Work shopの時間だった。そこから役を決めていくというやりかたで、最後の方まで役は発表されず、奈良橋さんのやり方が理解できずに悩んだ記憶がある。良い修行だった。
私は、”White boys”という凄くパワフルな曲を歌った。
この作品には、まだ大学生だった宮本亜門さん、時任三郎さんも出ていて、時任さんは主役に抜擢された。

〜 Long Road 〜

この作品に出たお陰で、奈良橋さんの事務所の紹介でコロンビアにつながっていく。Gメン75”遙かなる旅路“のオーデイションをうけてみないか?というお話だった。色々な方々が、オーデイションを受けたが、決まらないと言っていた。
結果としては私に決まりましたが、凄い大変なレコーディングで、涙した記憶がある。
1年くらいTBSで流れたが、日の目を浴びずに終わった。NHKの番組にレギュラーで出ていた時、ゲストのかたが「ポプラさんって、Gメンの歌のかたですか? あの曲凄く良かったです」と褒めてくれた。玄人受けする曲、つまり難しいということかな?
あの頃は歌わなかったが最近よく歌っている。モダンすぎて時期が早かったのかな?などと言ってみる。中々良い曲なのです。曲はミッキー吉野さん、詞が竜真知子さん。
そのころ、竜真知子さんて大人の方と思っていましたが、大体同年代らしいです。素敵な詞をお書きになるので、私より上かと思いましたが、私より年下でした。
因みに“ウイングマン”の作品も、竜真知子さんでした。

new! 2024.4.13  〜 busy, busy 〜

Hairの本番中に、もう一つmusicalの仕事が決まっていて、昼間そのリハーサルもはじまっていた。不器用な私としては、、、レコーディングはしなければならないし、他の作品のリハなど、随分売れていたこともあったのだな、と思ったりして、昔を思う。
Hairのmusicalは、西武パルコ劇場で上演されその後、池袋サンシャイン劇場でも再演されたが、私は次の仕事も決まっていたのでサンシャインは、出なかった。

Hairの本番中に、TBSのG’メン75のレコーディングもあり、その他に次のMusical “青春 on Stage” というオリジナルMusical のリハも始まって頭も体もめいっぱいで、とうとう熱を出したりもした。
このオリジナルは、藤田敏雄氏の脚本、構成、演出、音楽 前田憲男、振付 チャチャ遠藤。musical俳優をめざす若者たちが1部では、たくさんの挑戦をして、レッスンに励み演出家にしごかれながら、2部では、一人前に成っていくというstory。コーラスラインさながら、客席で演出家が指示を出しstoryを運ぶというものだった。



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